性別という箱庭──男女二元論は悪なのでしょうか
性別と聞くと、まず「男女」が頭に浮かびます。 それでよいのです。過ぎたるは猶及ばざるが如し、最初の理解は単純であるほど混乱が少ないものです。
男女どちらを名乗ろうと、それは個人の自由であり、その人の勝手です。 一般に使われる「男女」「男性・女性」という言葉は、生物としての性であるセックスと、社会的な性であるジェンダーの両方を、やや雑に、しかし便利に表現しています。
言葉とは往々にしてそういうものです。 切れ味を優先すれば、精密さは犠牲になります。なんともややこしい話です。
「一般的に」という魔法の言葉
一般的に、男性は雄、女性は雌として扱われます。 あくまで一般的に、です。
ここで言う一般とは、「誰もが必ずそうである」という意味ではありません。 最大公約数としての一般、日本語で言えば標準語のような立ち位置だと考えると分かりやすいでしょう。
例外は存在します。むしろ、例外は必ずあります。 しかし、例外があるからといって基準そのものを否定してしまうと、 木を見て森を見ずという結果になりかねません。
本稿では、このジェンダーとセックスについて述べていきます。
選べる性、問われる社会
ジェンダーは、どちらかを選ぶこともできますし、 どちらにも属さないという選択も可能です。
問題になるのは、社会がどこまでそれに対応できるかという点です。
性別の区別を完全になくしてしまうと、社会は成立しません。 なぜなら、私たち人類は社会的生物であり、 互いの違いを比較し、役割を分け合いながら生きてきたからです。
差異を消すことが平等なのではありません。 差異をどう扱うかこそが、知恵なのです。
対立という原始的な解決法
表現は過激ですが、交わらない意見は対立し、 最終的には勝った側が主導権を握ります。
これは非常に原始的な方法であり、 好ましいものとは言えませんが、驚くほど頻繁に発生します。 人類の歴史そのものが、それを証明しています。
少数派が声を上げられるという意味
さて、性別の話に戻ります。 「男女で区別するのはおかしい」という意見も確かに存在します。
しかし、かつて少数派と呼ばれていた人々が、 自らの意見を主張できるようになったこと自体、 集団が成熟した証だとも言えます。
声が届く社会は、未熟ではありません。
「男はみんな性行為目的」という短絡
「男はみんな性行為を前提に異性に近づいている」 そのような意見を耳にすることがあります。
雄は雌を懐妊させる生殖能力を持っています。 それは事実です。 銃が人を撃ち殺せる能力を持つのと同じく、機能としての事実です。
銃の比喩──能力と意思の混同
ここで例え話をします。 銃は人を殺すことができます。それは紛れもない事実です。
では、殺し屋が人に近づくのは、 必ず「撃ち殺したいから」なのでしょうか。
そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。
人を撃つこと自体が趣味の殺人鬼であれば、 人を見るたびに「撃ちたい」と思うでしょう。 そのような人が一定数存在するのも事実です。
しかし、男性が皆、常に「セックスしたい」と考えているかといえば、 そうではないはずです。
能力があることと、常にそれを行使することは別問題なのです。
責任は能力と共にあります
生殖の状況になれば、性行為が行われます。 それは否定できない事実です。
しかし、避妊を前提とした性交渉も存在します。 遊び半分で関係を持つ場合もあるでしょう。
弾が誤って当たらないように注意する必要があるのと同じです。
確かに、その厄介な能力を持つという点で、 男性は生殖において優位な立場にあります。
相手が銃を持っているということは、 自分の命が相手の手中にあるのと同義です。
ですが、その優位性と同時に、 引き金を引いた責任を問われるのもまた、その持ち主なのです。
ジェンダーとセックスは混同されているのでしょうか
私たちは社会的生物です。 そう考えると、「男女」というジェンダーと、 「雌雄」というセックスは、混同されているのではないかという疑問が生まれます。
実際、これを書きながら、私自身も少し皮肉に感じました。
生殖能力を持つのは「男性」、 懐妊するのは「女性」と表現しています。 なぜ「雄」「雌」と表現しないのでしょうか。
社会的役割という歴史の重み
理由は単純で、社会的役割が深く関係しているからです。
「男性」は一般的に体が大きく、筋肉がつきやすく、 物理的な力を持っています。 ここで言っているのは、社会的権力の話ではありません。
この身体的特徴ゆえに、 狩りや闘争において優位な立場に立ってきました。
社会的生物は、集団でなければ生き延びられません。 集団を維持するためには、闘争を抑える存在が必要です。
最も原始的な方法は、力で封じ込めることです。 話し合いによる解決には、
言葉が通じること
相手に話し合う意思があること
話し合いの最中に暴力を振るわないこと
この三つが揃っていなければなりません。
言うは易く行うは難しです。
文化と才能、そして性別
私たち生物には文化があります。 生物学的に言えば、習性や慣習です。
犬は人に懐く習性を持っています。 懐かない犬もいますが、それは例外であり、 多くの場合、躾によってその才能は強化されます。
持って生まれた才能は数多く存在します。 性別も、その一つに過ぎません。
縛られなくてよい、否定しなくてもよい
性別という才能に、無理に縛られる必要はありません。 しかし、だからといって、 存在そのものを否定する必要もないのです。
急がば回れ。 壊す前に、まず理解することが大切です。
社会は一夜にして変わりません。 ですが、考えることは、今この瞬間からでも始められます。