AIが作った画像や動画を見ていると、誰かの夢をそのまま見せられているように感じることがあります。

夢を見た本人には、そこに至るまでの文脈があります。なぜその場所にいたのか、登場人物にどんな意味があるのか、何を感じたのか。本人の中では一続きの体験です。

ところが、他人に見えるのは切り取られた光景だけです。「こんな夢を見ました」と映像だけを渡されても、鮮明ではあるけれど、何を受け取ればよいのか分からない。

生成AIの出力にも、これと似たところがあります。

出力できたことと、伝わることは別である

画像生成AIや動画生成AIを使えば、頭の中にある曖昧なイメージを、以前よりもはるかに簡単に外へ出せます。文章生成AIも同じです。断片的な考えを渡すだけで、それらしい形に整えて返してくれます。

しかし、外部化できたことと、他人に伝わる表現になったことは同じではありません。

何を伝えたいのか。誰に見せるのか。どの情報が必要で、どの情報が邪魔なのか。受け手にどんな順番で見せれば意味が通るのか。こうした判断は、出力ボタンを押しただけでは終わりません。

生成AIが得意なのは、素材を作ることです。人間の頭の中にあったものを、扱える形で取り出すことです。

それを伝達物に変えるには、人間による編集が要ります。

完成度の高さが、未完成を隠してしまう

生成AIの扱いで厄介なのは、出力の見栄えがよいことです。

雑な下書きなら、誰でも手を入れます。しかしAIは、一見すると完成品に見える文章や画像を返します。文章には見出しがあり、画像には光と構図があり、動画には音楽まで付いている。そのため、利用者は「もう完成した」と錯覚しやすい。

けれども、見栄えが整っていることと、意味が整理されていることは別です。

意図が曖昧なままなら、AIは曖昧な意図を滑らかに包んで返します。前提が間違っていれば、間違いをもっともらしく仕上げます。目的のない大量の情報を与えれば、情報量の多い、焦点のぼやけたものができます。

いわゆる「Garbage In, Garbage Out(ごみを入れれば、ごみが出てくる)」は今も変わりません。むしろ現在のAIは、ごみを見栄えよく包装できてしまうぶん、以前より見抜きにくいともいえます。

AIの出力は、高精度なドラフトである

AIの出力を完成品ではなく、高精度なドラフトとして扱う。この認識が、AIを使ううえでの出発点になります。

必要なのは、少なくとも次の工程です。

  1. 自分の中にある曖昧なイメージをAIで外部化する
  2. その出力によって何を伝えたいのかを定義する
  3. 受け手に必要な文脈を補う
  4. 不要な情報を削り、重要な部分を強調する
  5. 媒体と対象者に合わせて構成や表現を調整する
  6. 内容に責任を持てる状態か、人間が確認する

これは、AIに指示を出して何度か作り直させれば終わる、という話ではありません。AIに再生成させることと、編集することも別です。

再生成は別の候補を増やします。編集は、何を残し、何を捨て、なぜこの形にするのかを決めます。

人間の仕事は、生成から編集へ移る

AIは、専門的な技能がなければ形にできなかったものを、多くの人が作れるようにしました。これは間違いなく大きな変化です。

一方で、「作れた」という事実そのものの価値は下がっていきます。画像を出せる、動画を出せる、文章を出せる。それだけなら、同じ道具を使う誰にでもできるからです。

その先で差になるのは、何を伝えるかを決め、受け手に届く形へ変換する力です。

AIが人間の仕事をすべて肩代わりするというより、人間の仕事の重心が移る、と考えた方が実態に近いでしょう。手を動かして一から作る比重は減り、意図を定め、選び、削り、並べ、責任を持つ比重が増える。

道具は使いようです。ただし、AIの場合は「使った」だけで相応の見栄えが生まれます。だからこそ、その見栄えを成果と取り違えない注意が必要です。

生成は、完成ではありません。

頭の中の夢を外へ出したあと、それを他人にも意味のあるものへ変える。そこからが、人間の仕事です。